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「板挟みになり、売国奴と呼ばれた私」  ー 王千源さんの証言

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(2008年4月20日 グレース・ワン(王千源))

私は、イタリア語、フランス語、ドイツ語などの語学を勉強しています。この夏は、中国には帰省できそうもないので、アラビア語を勉強するつもりです。私の目標は30歳になるまでに中国語と英語以外に10カ国語をマスターすることです。

私が語学を学んでいる理由は、言葉は、理解の橋渡しになると考えているからです。中国とチベットについて言えば、より多くの中国人がチベット語を学び、チベット人が中国についてもっと学べば、2つの民族は、互いに理解を深め、現在の危機を平和的に乗り越えることができるはずです。一週間ほど前にデューク大学で起きた事件の後、私はより強くそう思うようになりました。

中国人とチベットを支持する抗議者グループの仲裁をしようとしたところ、私は板挟みになり、中国人から攻撃されるようになりました。抗議活動の後、ネット上で脅迫が続き、脅迫電話がかかってくるようになりました。状況はさらに悪化し、中国にいる両親も脅され、身を隠さなければならなくなりました。私は、故国で歓迎されない人間となってしまったのです。

それは恐ろしい体験でした。しかし、たとえ脅迫や嫌がらせがあったとしても、私はこの事件のいきさつを発表することにしました。私が口を閉ざせば、いつか他の誰かにまた同じことが起こってしまいます。

これが私の物語です。

昨年8月に初めてデューク大学に来たころ、私はこの地になじめませんでした。何しろ人口430万人の都市青島からノースカロライナ州ダーハムの小さな町に来たのです。けれども結局は慣れて、今では大好きになりました。世界中から来た多くの人々と多様な環境があるからです。クリスマス休暇中は、アメリカ人学生は皆故郷に帰りますが、中国から来た学生にはそのような経済的余裕がありません。その期間中は、寮や食堂も閉鎖されるので、私は、クラスメートのチベット人4人と共同でキャンパス外に部屋を借り、3週間以上にわたって一緒に過ごしました。

私は、同胞だというのに、これまでチベット人と会ったことも話したこともありませんでした。毎日のように一緒に料理や食事をしたり、チェスやトランプをして遊びました。当然のことながら、中国の全くの反対側で育ってきた私たちは、様々な体験について語り合いました。それはまさに私の目を開かせてくれました。

チベットには以前からずっと興味があり、雪の国としてロマンチックなイメージを持っていましたが、行ったことはありませんでした。なので、チベット人が異なる世界観を持っていることをこの時に知りました。私のクラスメート達は敬虔な仏教徒であり、それは私が人生の意味について見直す契機となりました。私は、中国人の教育を受けて唯物論者として育ちましたが、人生にはもっと深い、精神的な何かがあることに気がついたのです。

私たちは、その3週間でたくさんのことを語りあいました。会話は当然のように中国語でした。中国において、チベット語は中学校以上では教えていないために消滅の危機にさらされています。チベット人が極端に資本主義的な私たち中国の文化の中で成功するには、北京語で教育を受けなければならないのです。これを知って私は悲しくなりました。また、チベット人が私たちの言葉を学んだように、私もチベット語を学びたいと思いました。

この体験を思い出したのは、4月9日夕方のことです。私は、カフェテリアを出て、勉強するために図書館に向かっていました。途中の中庭で、チベットの旗と中国の旗を手に向かい合っている2つのグループがいるのに気がつきました。何を抗議しているのか聞こえなかったので好奇心から近づいてみると、双方のグループに知り合いがいたので、彼らの間を行ったり来たりして考えを聞きました。彼らが互いに離れて立っているだけで、話し合おうともしないのはおかしいと思ったのです。それは言葉の壁からくるものでもありました。そこにいた中国人の多くは理工系の学生で、英語にあまり自信がなかったのです。

私は双方のグループを近づけて対話を勧めようとしました。より広い視野からみんなで考えられるようにと思ったのです。それは老子や荘子、孔子の教えです。そして私は父から意見の違いを恐れる必要はないのだと教えられていました。残念なことに、現在の中国では批判的思考や異なる意見は諸悪の根源だと思われています。そのために、誰もが黙って調和を保っていなければなりません。

問題の発端は、抗議グループのリーダーであるアメリカ人の背中に、私が「フリー・チベット」と書いたことでした。彼は私の知り合いで、頼まれてそうしたのです。彼が中国人グループと話し合いをすると約束した後のことでした。この何気ない行動を中国人がどのように受け止めるか全く考えていませんでした。そこで、両グループのリーダーが交流しようとしましたが、あまり上手くはいきませんでした。

中国人の抗議者たちは、中国人であれば中国人の味方になるべきだと考えていました。チベット側に参加していたのはほとんどがアメリカ人で、事態がどれほど複雑かをわかっていませんでした。実のところ、両グループともに了見が非常に狭く、お互いに相手側の視点に立つことを拒んでいました。私は、怒鳴り合いではなく意見の交換になるよう手伝いたいと思いました。そこで、両グループの真ん中に立って、平和裏に歩み寄って互いの意見を尊重しましょうと呼びかけました。彼ら同士、相違点よりも共通点のほうがずっと多いのです。

しかし、中国人グループ(100人以上はいたでしょうか、かなりの大人数でした)はますます感情的になり、相手に話をさせようとしませんでした。彼らはたった10人ばかりの小さなチベット支持グループを小突き、「嘘つき、嘘つき、嘘つき!」と叫びながらデューク大学礼拝堂の入り口にまで追い詰めました。これには腹が立ちました。あまりに攻撃的だったからです。中国人なら「君子動口、不動手(君子は手を動かさず、口を動かすものである=賢人は暴力でなく話で解決するものだ)」という格言を知っているはずなのです。

私は怖くなりましたが、それでも相互にわかりあわなければと思い、両グループを行ったり来たりしながら、主に中国人に対し中国語で話しかけ、皆を落ち着かせようとしました。
しかし、それは彼らの怒りをますます煽ってしまったようでした。中国人グループの中でも、中国語で「憤青(憤怒青年・・・怒れる若者)」と呼ばれている若い男性達が私を罵りはじめました。

あまり知られていないことですが、中国人の中には私を支持し「彼女に話をさせよう」と言う人もいたのです。しかし、その声は、理性を失った少数の怒声にかき消されてしまいました。

中国人の中には私が英語で話すことを非難する人もいました。中国語しか話すなと言うのです。しかし、アメリカ人には中国語はわかりません。奇妙なことに、一部の中国人は英語を使わないことが愛国心の表れであると考えているようなのです。しかし、言語は思考やコミュニケーションのただの手段でしかありません。

抗議の声が高まる中、中国人の男性達は私を取り囲み、指を差して、1989年に天安門広場で学生運動を指揮していた若い女性の話をはじめました。「柴玲を覚えているか?中国人はみんなあの女を地獄の油で揚げてやりたいと思っている。お前はあの女と一緒だ。」彼らはまた私の頭がおかしい、地獄に堕ちろなどと言いました。私は彼らに聞かれるままに出身地や出身校を答えました。何も隠すようなことはなかったからです。しかし、私はこの暴徒達に襲われるのではないかと恐怖を感じはじめていました。最終的には、私は警察に保護してもらってその場から離れたのでした。

寮に戻ると、私は他の中国人がどう思っているのかを確かめるためにデューク大学中国学生学者聯誼会(DCSSA)のウェブサイトやメーリングリストをチェックしました。DCSSAの幹部Qian Fangzhou氏は「我々の意志をはっきりと示した」と満足そうでした。

私はそれに答えて、私が支持しているのは、非難されているようにチベットの独立などではなく、チベット人と中国人双方の自由である、中華人民共和国憲法に謳われているとおりに、すべての人民の自由と基本的人権が守られるべきだという返信を投稿しました。私はこの返信が実のある議論のきっかけになればと期待しました。中国人は私を余計に批判し、あざ笑うだけでしたが。

翌朝、ネット上には嵐が吹き荒れていました。額に「祖国の裏切り者!」という言葉が書かれた私の写真がネット上に出回っていました。それだけではなく、両親の市民ID番号が掲載されていました。これは非常にショックでした。この情報は中国の公安でなければ得られないのです。

また、中国の実家の詳細な地図が公開され、人々にこの「恥知らずの犬」をしつけてやろうと呼びかけていました。ここに至って私は事態の深刻さをはっきりと認識しました。殺してやるという脅迫電話がかかってくるようになりました。皮肉なことに、このようなことこそ私が懸命に止めさせようとしていたことでした。しかもそのターゲットは私なのです。

その翌朝、母と話をすると、両親は生命の危険を感じて身を隠そうとしていました。そして私にもう電話してきてはいけないと言いました。それからは携帯電話のショートメッセージが家族と連絡をとる唯一の手段です。また別の日には、ネット上で玄関前に大量の汚物が撒かれている実家の写真を見ました。最近聞いた話では、窓が割られ、わいせつなポスターがドアに貼られているそうです。また、母校である高校では私を非難する集会が開かれ、私の卒業資格は取り消され、愛国主義的な教育が強化されたとの話も聞きました。

私は人々がなぜこのように感情的になり、怒りをあらわにするのか理解できます。チベットにおける一連の出来事は悲劇です。しかし私を迫害するのは認められることではありません。個々の中国人はわかっているはずです。人々が互いに挑発し、暴徒として振舞うとき、事態は非常に危険なものになります。

現在、デューク大学は私に警察の護衛をつけてくれています。サイバースペースでは中国人の攻撃は依然として続いています。しかし、迫害している人たちの期待に反して、私は縮み上がって逃げたりはしません。それどころか、この恥ずべき事件を公表することで、両親を守り、中国人に自分たちの態度を見直させるつもりです。私はもう恐れていません。言論の自由を行使することに決めたのです。

言葉は理解への橋なのですから。

王千源さん